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2008年1月

2008年1月13日 (日)

10−10 仕事

 平成18年度の後期に東洋大学経済学部で授業を担当しました。本稿は、その授業で話したことをもとに、二十年ばかり読んだり、書いたり、考えてきたりしたことを改めてまとめたものです。はじめて、大学の授業を担当して、自分の考えが整理されたことがたくさんありました。多くの学生の前で話すことは得難い経験でした。
 就職や働くことについては、折に触れて授業で発言してきました。私が大学生のみなさんに伝えたいことは三つです。一つ目は、プライドを持って働くことです。暮らしていくには働かねばなりません。でも、お金を手にするだけで、自分にとって誇りをもてないような仕事だったら、いつか空しくなります。仕事につくと、仕事が平日の生活の真ん中を占めます。また、仕事は自己実現の場でもあります。誰かのためになっていると感じられる、プライドの持てる労働についてください。
 二つ目に、専門性を身につけてください。競争社会の到来とともに、学歴社会は終わります。かわって、職歴社会がやってきます。職歴社会で、自らの道を切り拓くには専門性が求められます。平たくいうと「腕」です。時代が移り変わっても、変わらない本質的な技術やスキルを身につけてください。それが何かは、人それぞれによって違うでしょう。身につけるべき技術やスキルを絶えず考え続けることが、専門性を錆び付かせないことかもしれません。
 三つ目は、フットワークです。学校では教室で待っていれば、教師はやってきますが、社会では自分で動かなければチャンスはやってきません。社会でのフットワークとは、誰かに接触したり、何かを試してみたりすることです。自分一人では知識も腕も時間も、すべてが限られています。フットワークよくすることは、身の回りのリソース(資源)を活用するということです。加えて、周りとコミュニケーションをとることです。仕事とは集団による活動であり、一人でするわけではありません。暗記力よりも、物事を伝えたり、伝えられたりするコミュニケーション能力の方がはるかに重要です。加えて、ノウフー(know who)も重要です。ノウハウ(know how)とは違います。ノウハウとは解決方法です。解決方法を自分で全部知る必要はありませんし、そんなことは不可能です。解決方法が分かっている人を知っている、ノウフーを持っていれば、どんな問題にも対処出来ます。というか、ノウフーこそかけがえのない資産です。コミュニケーションを図ることがノウフーの基本であり、フットワークよくすることがそのきっかけになります。
 かく言う私も、ついついフットワークよくしたり、他人とコミュニケーションしたりすることを億劫にしがちです。自戒もこめて、学生のみなさんに向けて書きました。これから就職活動をする人、今活動中の人、活動がうまく行かなかった人、もうすぐ社会に出る人。いずれの人にも、本稿が何らかのプラスになることを願いつつ、筆を置くことにします。聴講、どうもありがとうございました。

2008年1月12日 (土)

10−9 良く

 航空、情報通信の発達により、この百年で世界は小さくなりました。海外旅行する人は飛躍的に増え、外国のニュース報道を見たり、携帯電話やインターネットで外国とリアルタイムで通信したりすることが出来るようになりました。各国の社会も経済も百年前では想像できないほどグローバル化しました。でも、伝統や文化にはまだまだ各国の多様性があります。現代の日本人の考え方とアメリカ人の考え方は似ている部分もありますが、違う部分も大いにあります。現代の日本人と平安時代の日本人の方が、共通点が多いでしょう。それでも千年を経て、自然や社会に対しての考え方など、両者では全く違うところもあります。ローマ人と現代イタリア人が同じイタリア半島に住んでいるものの、全く異なるのと同じです。
 価値観は時代によって異なるとか、多様化しているとかと言われています。社会は豊かになりました。同時に、モノでもサービスでも選択の幅が拡大しました。確かに、選択肢は多様化しています。でも、本質的な価値観は多様化してないと感じます。塩野七生さんか誰かが言われていた通り、東も西も、今も昔も、人の価値観はただ一つ「良く生きたい」だけだと思います。
 良く生きたいという意志のほかに、世の中を乗り切るには運も必要です。運とは、世間や時代とマッチすることです。世間や時代に迎合する必要はありませんが、いくら才能があっても世間や時代と喧嘩していては、良く生きることは難しいでしょう。才能はまさに千差万別です。あれば素晴らしいですが、持って生まれたものなので、ないものねだりをしても仕方がありません。才能は平等ではありませんが、生きている限り、時間は万人に平等です。天才の一日も、普通の人の一日も客観的には同じ長さです。また、天才も普通の人も平均寿命は違いません。生きることの最大の制約である時間は、誰にでも平等です。
 最大の制約である時間が平等なのですから、良く生きる前提条件はみな同じようなものです。しかも、現代は人類史上かつてないほど、物質的に恵まれています。また、身分制や差別や偏見も過去に比べれば減少しています。人権、ヒューマンライツは近代ヨーロッパの生み出した最大の発明です。総合的に、世界の中でも日本は特に恵まれた環境にあります。したがって、良く生きようとするのに、周囲の環境は決して悪くありません。むしろ、恵まれているほどです。ですから、多分、あきらめなければ何とかなります。というより、あきらめない姿勢が良く生きようという姿勢であり、良く生きようと心がけるだけで、案外、良く生きられるような気がします。ちょっと、楽観的すぎるでしょうか。

2008年1月11日 (金)

10−8 再構築

 日本は戦後、社会や共同体の安全をアメリカに委ねてきました。今でもそうです。自らの属する社会や共同体の防衛を外国に依存し、平和と安定を手にしました。しかし、同時に防衛意識が希薄になりました。防衛の根本はミサイルや戦闘機などの兵器や装備でなく、自らの属する社会や共同体を守ろうとする意識であり、連帯感です。つまり、防衛意識の希薄化とは、連帯感の希薄化です。社会や共同体の連帯が失われると、社会基準があいまいになり、常識や普通の感覚が麻痺します。そうすると、自殺率が上昇したり、凶悪犯罪が増加したりする可能性を先述しました。したがって、防衛意識の希薄化が、オウム真理教による地下鉄サリン事件発生や近年の少年凶悪犯罪増加に影響していると考えられます。悪化するいじめも、社会基準の歪みの現れであり、防衛意識や連帯感の希薄化が関係していると考えられます。
 自衛隊の社会的位置づけも、社会基準全体があいまいになってきた遠因の一つだと思います。憲法9条の解釈の中には、自衛隊を違憲とするものがあります。政府ですら、戦後直後には、自衛戦争を含め一切の戦争を放棄したとの解釈を取っていたほどです。確かに、戦争よりも平和の方が良いに決まっています。武力行使によらずに、国際紛争を解決することも望まれます。しかし、自ら欲せずとも戦争に巻き込まれる可能性はありますし、仮に他国に攻められた場合は、自衛の範囲であろうがなかろうが、武力行使をせざるをえない状況になるでしょう。有事の際に身を挺して社会や共同体を守ろうとする人に、ある種の尊敬が集まるのが普通の社会感情でしょう。しかし、戦力不保持を掲げる社会は、社会や共同体を防衛する組織を日陰者として扱ってきました。自らの属する社会や共同体の防衛組織を否定しては、連帯感が希薄化するのも無理はありません。
 その反動としてか、薄らいだ国家意識を回復しようとの社会的動きが以前よりは活発化してきた印象です。新しい歴史教科書を作成する運動は一例でしょうし、安倍総理が掲げた「美しい国」や「戦後レジームからの脱却」もそのような流れの一つと考えられます。自国の歴史や文化を正当に評価しようとすることは当然の行為です。ただし、これが排外主義に向かわないように気をつける必要はあります。排外主義は戦前のように自国を過大評価し、他国を過小評価することにつながりがちです。排外主義では何の国際関係も構築されません。愛国心は開かれたものである必要があります。開かれたナショナリズムです。
 歴史観とは現在から過去を見る尺度です。山でも見る場所により異なった見え方がします。歴史的事実も同じです。評価する時代や国によって異なった解釈が可能です。しかし、国際的評価は戦勝国側が決めます。敗戦国内でいかに議論を戦わせようとも、国際社会に影響は与えません。歴史観を変えたいなら、未来の国際社会で勝者の側に回るしかありません。現在の国際関係では、個人は別として、公式にはアメリカは原爆投下の非人道性を認めることはないでしょう。
 でも、当然ではありますが、防衛意識や連帯感ですべての問題が解決するわけではありません。家族、恋人、友人、同僚などとのプライベートな問題は自分で解決するのが基本です。進学や就職も言わずもがなです。社会の問題は社会が解決し、個人の問題は個人が解決する必要があります。個人の問題を社会の問題に転嫁するのは、問題の先送りか現実逃避でしょう。
 社会問題の解決に向かっては、連帯感の再構築が現在の日本には求められます。国家的危機が到来すれば、一時的に国家が連帯の中心になるかもしれません。しかし、長期間にわたって、国家が連帯の中心になることは出来ないでしょう。そういう時代ではもはやありません。職場も、地域社会も同様に社会的連帯の核に返り咲くことはないでしょう。家族や家庭だって人によったら、中心的存在になりません。古い価値観を復活させて社会的連帯感を醸成するのも不可能です。逆に、新しい単位であるミクシィなどのインターネットでのコミュニティも、一定の効果はありますがが、社会的な連帯感を育む核にまでなることは困難でしょう。シンプルで効果的な解決策はないと思います。すべての社会単位で、少しだけよくなるようにするしかありません。理想が実現困難でも、あきらめずに社会の再構築に取り組むしかないでしょう。でないと、状況はどんどん悪化します。あきらめない姿勢が、新しい社会形成につながるのだと思います。

2008年1月10日 (木)

10−7 犯罪

 有罪の総数は戦後、減少を続けてきました。それが、90年代に入ると増加に転じました。しかも、凶悪犯罪が大きく増加したため、治安は一気に悪化した印象を受けます。法制度が異なっていたので単純比較は出来ませんが、明治時代の犯罪発生件数は現在の十倍以上でした。世の中が定まっていなかったことの表れでしょう。これまで、統計上、最も凶悪犯が少なかったのは昭和の末です。昭和と平成とでは、世の中はどこか変わってしまったのかもしれません。
 先に自殺について述べましたが、自殺率と反対に、犯罪率は夜に増加し、年齢を重ねるごとに傷害などの犯罪率は低下する傾向にあります。他方、自殺率と同じように犯罪率でも、男性の方が女性よりも高い値を示します。ただし、最近では女性、特に少女の犯罪率が急上昇しています。
 犯罪は誰しもが同じような確率で起こすものではありません。暴力団や外国人や若者の犯罪率は高率です。例えば、暴力団の構成員が検挙される率は、一般人の百倍以上の数字です。また、平成に入って、来日外国人の犯罪が急増する傾向にあります。来日外国人が殺人や強盗を犯す率は日本人一般の7〜8倍にも達すると推計されています。細かく見てみると、来日外国人凶悪犯の半分は不法残留者です。それから、少年の検挙人員率は成人の10倍近くに達します。中でも、窃盗や恐喝の社会全体に占める少年犯罪数は半分に達します。少年犯罪が成人犯罪と異なる特徴には、シンナーなど毒物に関係する犯罪が多いことがあげられます。
 ただし、従来型の犯罪には講じる術がないわけではありません。例えば、暴力団に対しては、暴力団の弱体化を図って、暴力団対策法が平成四年に施行されました。来日外国人の不法残留者に対しては、取締強化がなされることがあります。また、保護主義を基調としている日本の少年法も、近年は一部厳罰化が図られるなど対策が試みられています。ちなみに、アメリカでは少年犯罪に対する法的規制強化により犯罪率は低下しました。
 問題は、普通だと思われていた人や少年がおこす凶悪犯罪です。毎年のように、これらの凶悪犯罪が多発するようになりました。遺伝的に何らかの変化が生じて、凶悪犯罪発生率が高まっているわけはありませんから、普通だと思われていた人々の犯罪を社会が抑制できなくなったと考えるしかありません。デュルケームのいう、社会基準が緩んで、常識や感覚が麻痺するアノミー現象が起きていると考えられます。
 常識や感覚が麻痺した人々は何をしでかすか分かりません。地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の信者は、アノミーに陥り、常識や通常の感覚が麻痺した狂信者でした。善悪の判断がつかなくなり切断殺人などを犯す凶悪な少年犯罪者も、本質的部分ではオウム真理教信者と変わらないでしょう。しかも、日常行動が一般の人と違わなければ、外側から異常を知ることは出来ません。アノミーは社会や共同体の連帯が欠如すると生まれます。オウム真理教は欠如した連帯を、狂信により取り戻そうとする愚かな教義でした。
 普通だと思われていた人や少年が犯す凶悪犯罪を減少する術は、法制度を変更することではありません。時間はかかりますが、善悪の判断がつかない人を生み出す社会を改める以外に方法はないでしょう。社会や共同体の連帯を適度に回復し、常識や普通の感覚を再生するのが大筋の方向だと考えます。

2008年1月 9日 (水)

10−6 格差とメディア

 負け組という言葉を雑誌などでよく目にするようになりました。フリーター、ニート、ネットカフェ難民などを狭い意味では指しているようです。広い意味では、所得や社会的地位の高くない人全体を指すこともあります。
 色々な定義はあるでしょうが、負け組とは時間があって、お金のない人のことだと私は考えます。反対に、時間がなくて、お金のある人がエリートでしょうか。時間もお金もある人はセレブと呼ばれる人たちでしょう。時間もお金もない人は、不運な人だと思います。でも、不運と不幸は一緒ではありません。時間やお金のあるなしと、幸か不幸かは別問題だと思います。むしろ、時間もお金もある人の方が、不幸せに見える人は多い気すらします。
 民放テレビは電気代のほかは、視聴するのにお金がかかりません。内容は難しくなく、娯楽性が高い番組がほとんどです。集中力を必要としない、リラックスしたメディアです。なんとなく、ダラダラとスイッチを入れたままにしがちです。お金はかかりませんが、時間を費やします。そうすると、時間があって、お金のない人にはぴったりです。ミクシィやグリーなどのソーシャル・ネットワーク・サービスにも同じ傾向があると思います。お金はかかりませんが、手間隙がかかります。ミクシィはいわゆる負け組に親和性が高い気がします。
 時間がなくて、お金のある人の典型はエリート・ビジネスマンでしょうか。これらの人は、ニュース番組をチェックするくらいで、テレビをだらだら見ないでしょう。他方、忙しい人は新聞には目を通す人が多いようです。一覧性にすぐれた新聞は、忙しい人にもってこいのメディアです。持ち運び可能な時事ポータルサイトが新聞だと思います。新聞はそもそもジャーナリズムで、硬い内容が多いですから、内容面でもエリートと呼ばれる人にはぴったりでしょう。それから、将来のインターネットで自動巡回検索などエージェント(代理人)機能が広がるなら、想定されるユーザーは、この忙しくてお金のあるエリート・ビジネスマンだと思います。
 セレブと呼ばれる人々は、メディアに疎そうなイメージです。インターネットはしなさそうですし、テレビを見るよりも観劇に出かけそうな印象です。メディアを介さずに、コンテンツに直接ふれたり、サービス担当者に直接頼んだりすることができそうです。プライベート・バンキングというお金持ちを対象にした個別資産運用サービスは、まさにこの例だと思います。メディアを介するということは、不特定の人とコミュニケーションすることですが、セレブと呼ばれる人は、メディアを介さずに特定の人とコミュニケーションしているイメージです。
 お金も時間もない人は不運な人というか、不十分な人だと思います。だらだらとテレビを見ている時間もないでしょうし、セレブのようにサービスしてくれる相手もいないでしょう。そういう人に親和性があるのはラジオではないでしょうか。働きながら、生活しながらの、ながらメディアがラジオです。お金も時間もないのは、大変かもしれませんが、結構、充実感ある生活かもしれません。ラジオは災害にも強いですし、社会の基盤的なメディアです。
 社会に居場所があり、将来を悲観するような状況でなければ、時間や所得の多寡に関わらず、人は暮らしていけると思います。個人的には、フランスに留学して言葉にとても不自由した時、少し大げさかもしれませんが、社会的弱者になった気がしました。同時に、中学の英語の授業で寝ていた友人の気持ちがやっと分かった気もしました。言葉が通じないと生活全てが不自由ですが、私にはパリでも学校にも街にも居場所があったので、不思議と疎外感はありませんでした。日本に帰国する期日が明らかだったことも、暮らしに張りがあった理由の一つだったと思います。出口が見えれば、明るい先もイメージできます。インターネットが広く普及する前の時期だったことは幸いでした。現在なら、フランスにいてもインターネットというメディアを通じて、日本社会が身近すぎたことでしょう。それだと、異文化で暮らすという留学の副次的効果も薄らいでしまったと思います。
 格差とメディアの話に戻ると、日本では時間や所得の多寡に関わらず、携帯電話は最も広く行き渡ったメディアになりました。この傾向は、時を経るごとに強くなるでしょうし、海外でも同じだと考えます。携帯電話でブロードバンドに常時接続という環境が将来やってきます。情報の受信も発信も格段に便利になります。でも、情報をすぐに発信しないでよく考えたり、なかなか情報を手に出来なかったりする経験は、人を成長させる面もあると思います。私自身も、田舎の大きくないレコード店や書店という不自由なメディアを介せざるをえながったことが、今考えると貴重な経験でした。

2008年1月 8日 (火)

10−5 自殺率

 近年、日本では特に高い自殺率が続いています。世界でも十番目くらいに悪い状況です。残念なことに、歴史的にも日本の自殺率は高い傾向にありました。現在、日本より高い自殺率なのは、ロシアや東欧諸国など全て旧東側の国々です。両大戦間のドイツ、自由化後のロシアなど、一般的に国情が不安定な場合は自殺率が高まる傾向にあります。
 多くの統計を用いて、自殺を社会現象として分析した古典がデュルケームの自殺論です。1897年に公表されました。デュルケームによれば、夜よりも昼に自殺は増え、男性は女性よりも自殺しやすく、年を経るごとに自殺率は上昇します。他方、子供がいると自殺率は減少します。戦争がおきると、その国の自殺率は減少します。また、当時のヨーロッパでは、プロテスタントはカソリックよりも自殺率が高く、都市は農村よりも自殺率が高い傾向にありました。(ただし、日本では農村でも自殺率が低くなるわけではありません。)自殺する個々人をミクロに心理分析することも重要ですが、自殺を生み出す環境をマクロに社会分析するデュルケームの方法も大変有意義です。
 デュルケームの分析によれば、軍人など、所属する共同体と特に密接な関係にある人々は自殺率が高い傾向にあります。反対に、作家など、共同体への参加が希薄な人々も自殺率が高い傾向にあります。個人と共同体の間柄が近すぎても、遠すぎても自殺率は高まります。個人が社会に埋没するのも、社会から孤立するのも芳しくないということでしょう。
 多くの人のイメージ通り、不況になると自殺率は増える傾向があります。ただし、デュルケームによれば、好景気でも自殺率が増加することが歴史的にあったそうです。好景気もバブルのような混乱に結びつくと、社会ルールやモラルがあやふやになります。そうすると、人々は満足を感じづらくなって、社会的に不安感が高まるそうです。このような社会基準が分からなくなってしまった状態をアノミーと呼びます。アノミーに陥ると、社会は一層混乱しますし、自殺率も上昇します。
 戦後日本の自殺率は三度ほど、高まりました。経済成長に入る前の段階、低成長になり不況に直面した昭和の末、そして平成十年以降の現在です。しかも、これら三つの時期で高い自殺率を引き起こしたのが、なんと同一の世代なのです。昭和一桁以降の戦前生まれの世代です。それらの人々の世代的な経験が、高い自殺率につながっているとしか考えられません。多角的な分析・解明が求められる社会現象です。
 平成九年までは日本の自殺者数は長らく、二万人台でした。それが、平成十年から三万人台になり、この状況が十年間も続いています。平成六年からのわずか四年間で自殺者数は一万人増加し、1.5倍増加しました。警察庁の統計によれば、この十年で経済生活を原因とするものが3倍へ、勤務問題を原因とするものが1.5倍へ増加しました。自殺原因の半分は病気によるものと分類されていますが、病気が原因であるものの中にも、生活苦を複合的要因とするものもあるものもかなりあると推測されます。弱者は不況の被害を真っ先にこうむります。
 日本の自殺率はシンプルに不況になると高まり、好況になると低まる傾向にあります。自由主義経済の原則は競争です。競争が効率を高め、社会を発展させます。でも、競争は勝者も敗者も生みます。競争社会に安全柵を設けなければ、敗者が死者に転じます。政府は経済的弱者や競争に負けた人に手を差し伸べるべきです。自助努力が社会の基本でしょうし、モラルハザード(経済倫理破綻)を懸念する意見もあります。でも、モラルハザードが起きるくらいで、自殺者数が減るなら結構なことだと思います。自殺者を減少させる政策は政府の最優先事項だと個人的には考えます。

2008年1月 7日 (月)

10−4 格差社会

 日本は一億総中流社会だと言われてきました。ただし、欧米でいう中流と、日本でいう中流は意味するところが異なります。欧米では貴族や資本家には遠く及ばないものの、一定以上の資産を有する人を中流と認識してきました。日本では資産はなくても、生活の向上が見込まれ、安定した収入のある人達が、中流と言われてきたと思います。日本における中流は、戦後の経済成長とともに拡大しました。
 中流が社会の中心的存在だったため、日本は格差が少ない国と考えられてきました。格差の定義によって多少異なりますが、欧米と比較すると、総じて日本は格差が少ない社会でした。事業に成功したアメリカの大資本家や、ヨーロッパの大土地所有者など、欧米には上流が明確に存在します。歴史的にも、ヨーロッパでは非常に富裕な貴族層がずっと存在してきました。日本では、江戸時代を例にとれば、殿様は質素倹約を強いられ、京都の公家にいたっては貧しい経済状況を強いられることさえありました。日本にはヨーロッパ的な権力も名誉も資産も持ち合わせる上流は存在しませんでした。士農工商の身分制度はありましたが、金で侍の地位を買ったり、下級武士が能力によって抜擢されたり、階層間の事実上の移動はヨーロッパよりもはるかに可能な社会でした。さらに戦後は、まじめにコツコツ働けば貧困からは脱せられる経済環境でしたので、格差が固定化することもありませんでした。
 しかし、ここ数年、格差が身近に感じられるようになってきました。ジニ係数という格差を表す指標も、政府報告によると上昇傾向にあります。そもそも、資本主義経済では資本が資本を生むので、富の偏在は時間の経過とともに起こります。したがって、所得再分配メカニズムが社会に強く組み込まれていない限り、資本主義では放っておくと資産格差は拡大します。現在でも、資産がある人は年金を小遣いに使う一方、貯蓄なき年金生活者は十万円の年金で一ヶ月を暮らさねばなりません。
 ところで、戦争は国の経済状況を一変させ、リセットする結果をもたらします。まさに、経済のリセットにより、富みの偏在が和らぎ、資産格差が薄らいだのが戦後直後の日本でした。みなが0から出発すれば、しばらくは、格差は小さな範囲です。しかし、平和が続き、社会が安定すれば、格差は拡大します。最近では様々な分野で二世が普通になってきました。二世の拡大は世襲の拡大であり、階層の固定化ともみなせます。
 加えて、バブル経済崩壊後の長引く不況が格差の拡大をもたらしました。弱い者ほど不況の影響を受けます。労働コスト削減はアルバイトや派遣などの非正社員の増加をもたらしました。さらに、正社員の賃金は保障されていますので、労働コスト削減のしわ寄せは非正社員の賃金に表れます。バブル崩壊後は、生活向上も期待出来ず、不安定な収入状態にある人々が増加しました。また、二世などの勝ち組と言われる人々と、非正社員などの負け組と言われる人々の二極化が進みました。負け組とは、将来に明るい期待を抱けない人々かもしれません。
 これらの格差拡大に対して、税制による所得再分配の強化や最低賃金の引き上げなどが唱えられます。他方で、マネーゲームの勝者を認めたくない雰囲気も社会にはあると感じます。でも、最高税率を上げるなどの金持ち叩きをするよりも、底上げや抜擢により社会全体を持ち上げる方が建設的だと考えます。また、低賃金労働を法制度により高賃金に変えたところで、製品やサービスの国際的な価格競争で敗れるだけです。ひとりひとりが専門性や技能をアップし、付加価値を高めないと社会全体の向上にはつながりません。
 格差社会を生き抜くためには、今後はさらに専門性や技能という「腕」が求められます。一人前の腕を身につけるためには、二十代、三十代の経験はますます重要になります。その上で、格差社会で最も必要なのは、将来に向かってたくましく生きようとする姿勢でしょう。ただし、自立が難しい人は、いつの時代にも必ず存在します。格差の有無にかかわらず、本当の弱者には社会全体が手を差し伸べるべきです。

2008年1月 6日 (日)

10−3 無宗教

 日本には宗教がないという見解があります。他方、初詣で神社へ、墓参りに寺へ、結婚式は教会へなど、宗教的行事にはことかきません。宗教には、生活や文化を規定する社会基盤としての力があります。キリスト教的な信仰とも、イスラム教的な宗教に基づいた生活とも違いますが、日本には日本の、宗教的何かがあると思います。山本七平さんは、それを「空気」の支配する日本教と名付けました。確かに、日常の会議から、果ては政治に関する世論まで、日本では空気が一変すると結論が変わります。よく言えば弾力的ですし、悪く言えば無原則です。論理よりも、空気というその場の情緒が物事を決定する社会です。
 時々、一家心中のニュースを耳にすることがあります。借金を苦に一家心中をする。旦那を殺したので、そんな母親を持った子どもは不憫だから、子どもと一緒に死ぬ。理由は様々ですが、家族は運命共同体であり連帯して生きることを、当然の前提にした行動です。でも、子どもの命は親のものではありません。一歩引いて考えれば、子どもの命はその子のものと分かります。子どもが親と一緒に死ぬ必然性はありません。自殺自体を宗教的に禁じているせいからかもしれませんが、欧米では一家心中というのは、ほとんどないそうです。共同体の結びつきが、他の何よりも優先されることが、一家心中の背景にあります。共同体が中心の社会だから、空気という共同体の感情が人々の行動を決定します。
 江戸時代では、農村を単位とする共同体が形成されていました。戦前は国家が共同体でした。その共同体も、空気に流された開戦による戦争で瓦解しました。戦後は、終身雇用を背景に会社が共同体になりました。ある大災害があった時に、自分の会社の人から優先的に助けようとする光景が見られたそうです。共同体のメンバーを特別視するのは、外国で事故が起きた時の日本人犠牲者を発表するニュースと一緒です。共同体メンバーの安否が確認出来たら、冷たいくらいに関心事でなくなります。
 平成に入り、終身雇用と年功序列が崩れると、会社は共同体でなく、リストラをしてでも利益をあげざるをえない、単なる経済組織になりました。国家主義的な風潮が広がっているのは、北朝鮮の脅威が促進した面もありますが、会社が共同体たりえなくなってきたからです。従来の共同体が崩壊したので、それ以前の共同体であった国家共同体を懐かしむ声が、右傾化の背景にあります。過疎や都市化の進展により、農村共同体や地域共同体の復活が期待出来ないことも、国家共同体を渇望する声が広がる背景です。さらに、mixiなどインターネットでのコニュニティ・サービスの急速な拡大も、連帯や共同体を求めての活動と見られなくもありません。現実空間で共同体を構築できないなら、サイバー空間で共同体を構築しようという無意識の社会的試みだと感じます。とは言っても、mixiのコミュニティが会社共同体にとってかわることは難しいでしょう。
 今後は、絶対的共同体のない、ゆるやかな共同体社会になると予想します。ただし、社会の不安定さは増すでしょうから、空気が社会を決定する点はむしろ強まるかもしれません。

2008年1月 5日 (土)

10-2 学歴社会

 日本は学歴社会です。学歴に関係なく社会的地位を得ている人もたくさんいますが、そういう人は特別の能力を持っている人が多数です。特別の能力がない普通の人は、学歴がある方が有利です。何に有利かというと、有名な会社に入るのにです。
 これまでは、有名な会社に入ることは魅力的でした。有名な会社は規模が大きく、景気変動に強く、安定的です。定年まで雇用も保障されていますし、生涯給与も高額です。福利厚生もしっかりしていますし、退職金も期待できます。会社中心に人生が設計できたのが、日本の会社社会でした。スポーツ選手やアーティストになるには特別の能力が必要ですが、それ相当の学歴を手にすれば、有名な会社に入るのに特別の能力は必要ありません。入ってしまえば、よほどのことがないかぎり定年まで勤め上げることができました。現に報酬に見合った貢献を会社にしていない人は、大企業にはたくさんいます。有名な会社に入れれば、安定した人生が待っていました。
 有名な会社に入るには、有名な大学に入る必要があり、その前には有名な高校に入って・・・と、どんどん受験が低年齢化して、行き着いたところが小学校入試、幼稚園入試などのお受験です。ですから、会社社会と学歴社会は表裏一体です。というか、学歴社会は会社社会の結果です。学歴社会のパーツにすぎない入試制度や偏差値教育を変更しても、学歴社会の根本は変わりません。学歴社会を変えたいなら、会社社会にメスを入れる必要がありました。でも、昭和の間は、会社社会は変更出来ない強固なシステムに見えました。
 それが、平成に入って様相が変わります。不良債権処理にもたつき、不況が長引く中、グローバル化が進展し、大企業といえども競争環境が激化しました。そのため、リストラという名の早期退職が急に一般的になりました。企業が生き残るのに、終身雇用は捨てられたのです。入社した会社中心に人生が設計できた時代は過ぎ去ったということです。同時に中途採用も増えました。企業が労働市場に求めるのは、利益に直結する労働力です。時代にマッチした専門的な知識や経験がなければ、たとえ高い学歴を有していても価値がなくなりました。会社社会が変わりましたので、その結果たる学歴社会も必然として変わって行きます。今後は、専門性、市場性に裏打ちされた職歴社会になりそうです。職歴社会は実力が常に問われますので、学歴社会よりも競争は激化します。しかし、十代に受けた試験の結果で大勢が決まる学歴社会よりも、よほどフェアな社会でしょう。
 また、入試の低年齢化とともに、公立学校離れも進んでいます。公立学校が教育環境に適さないとの認識が広がった結果です。資金的なゆとりがないと私立学校に子どもを長く通わせることは出来ません。所得、資産の格差が教育現場にまで現れつつあるのが公立学校離れです。一億総中流だといわれてきた日本で、階級化が進展している兆しでしょう。教育は人を育てる機能をもつ、社会全体の再生産装置です。教育に格差が生まれることは、社会の格差が固定化することです。

2008年1月 4日 (金)

10-1 教育

 イギリスの前首相トニー・ブレアは就任会見で重要政策を尋ねられ、「教育、教育、教育」と答えたと言われています。教育の重要性を表した言葉として、しばしば引用されます。教育の重要性は色々な人がよく説きます。でも、教育が重要であるとの主張は、実のところ、何も語ってないに等しいでしょう。問題は何をするかです。
 教育には、学校教育、家庭教育、社会教育の三つがあるとされています。教育といった場合、無意識に学校教育を指して語られることが多いほど、三つの中でも学校教育が議論の中心になります。日本政府は教育を再生するために、教育再生会議を平成18年に設置しました。再生というのですから、状況は悪いと認識されていることになります。教育政策もその他の政策一般と同じように、予算、法律(ルール)、組織が主な政策手段です。予算をどれだけ確保するかで、教師や学校施設の量は決定されます。法律(ルール)をいかに作成するかで、カリキュラムや教育内容の質は決定されます。教育委員会など組織をどのように設置するかで、責任者や経営・管理などが決定されます。ただし、政策とは畢竟、環境整備です。環境整備である教育政策は教育全体では半分の役割です。残りの半分は、教育現場に委ねられます。
 政策手段を実効するためには、政策メッセージは大切です。実のある政策手段と一緒に、国のトップが教育の重要性を唱えるなら教育政策の効果は上がるでしょう。就任会見での発言を踏まえて、ブレアは教育政策を具体的に展開しました。日本でも、精神論ばかりが語られるのではなく、具体的内容について議論が交わされ実施に移されるべきです。
 教育の目的としては、大別して、個々人の幸福増進をめざすものと、社会全体の発展をめざすものの二つがあると語られてきました。両方の目的は相反するものでなく、並立しうるものでしょう。個人的には、学校教育は発達段階によって、主たる目的が異なると考えます。小学校では、楽しい子ども時代を過ごすことが最も大切だと感じます。中学校では、社会に出る準備をさせることでしょう。高校・大学は、自己実現のサポートをするところだと思います。教育観は価値観そのものです。先述した目的も私の一意見にすぎません。価値観は社会的に許容されるものであれば、個人の自由に属しますので、教育を受ける側の選択に委ねるのが自由な社会では妥当だと考えます。
 商人に学問はいらないとか、女に教育はいらないという言葉が昔はありました。言う方には言う方なりの理屈があったのでしょうが、人間の可能性や社会の発展を否定するような嫌な響きを持っています。学問が好きな人もいれば、苦手な人もいます。学校教育は役に立つこともありますが、役に立たないこともたくさんあります。学問や教育を無理強いすることも、無理に遠ざけようとすることも、どちらも個人や社会を歪ませると思います。
 ところで、新入社員が社員に占める割合が数十分の一なのは、伝統ある大企業のよい点だと聞きました。毎年採用して、年齢構成が平均ならば、新入社員の割合はそれくらいになります。これなら、大企業は現実社会の縮図です。お手本になる人だけでなく、反面教師も豊富でしょう。明示的な社員教育以外に、無形の教育環境が整備されていると言えます。社会で自ら学ぶことが出来るのは得がたい経験につながります。
 教育とは、生きることの一部です。教えているつもりでも、教わっていることはたくさんあります。生きることの一部であるなら、特別なことではありません。ですから、教育を特別視して語る必要はありません。可能性もあれば、限界もある日常の事柄として考えるのが良いと思います。

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