5−4 裁判と世論
「遠山の金さん」と並んで「大岡越前」はお奉行さんが主人公の人気時代劇でした。子供の親権争いで二人の母親に子供の手をひっぱらせた裁きなどが有名です。このような味のある裁判は、旧約聖書や中国の故事など世界各国にも見られます。しかし、時代劇の結末などを見ると、日本人はことのほか人情味のある一件落着が好きな気がします。
現実の裁判は手続きが厳密に定められており、大岡裁きとは様相を異にします。近代国家では立法、行政、司法の三権が分立しています。裁判官の役割は議会が作った法律を当てはめることです。裁判では当事者の主張をベースに判決が下されます。事件を解決するために、その場でルールを作ったり、ひっぱりあいで勝ち負けを決したりすることは出来ません。また、裁判官は常にたくさんの訴訟をかかえています。国の司法機能を円滑に機能させるため、裁判官は機械のようにてきぱきと事務処理をこなすことが求められます。大岡越前のような裁判官を期待しても、現実の裁判官はその期待には応えられません。
裁判官は当事者の主張や証拠などに基づき、法律をあてはめます。たとえ新聞やテレビが容疑者をどんなに犯人扱いしようと、当事者の主張や証拠などに基づかずに勝手に法律を当てはめることはできません。本来、裁判は評判や憶測から中立的でなければなりません。しかし、裁判官といえども社会から孤立して生活しているわけではないので、世論の影響を知らず知らずに受けます。少し古いですが、ロッキード事件のように被告人の有罪を世論が強く期待するような場合に、裁判所が世論に対して超然としていられるかは、いぶかしい気がします。仮にロッキード事件で田中角栄元首相に無罪の判決が出ていたら、当時の人々は司法に対して不信に陥ったかもしれません。訴訟手続で多くの疑問が呈せられましたが、ロッキード事件の裁判では訴訟手続に関する裁量的解釈がなされた印象があります。裁判の中立性よりも司法への信頼を重視したとみなせます。
ロッキード事件の田中裁判は、最終的には被告人の死亡による公訴棄却で終了しました。日本の裁判は三審制といって、一つの事件や紛争で三回まで裁判を受けることができます。審議をつくすのが制度の理由です。結果として一審、二審で勝っても、三審で負ければ裁判は敗訴に終わります。審議をつくすという理由はもっともでしょうが、下級審で勝った側も一度得た勝訴がぬか喜びに終わることがあります。加えて三審制には時間がかかります。最近は迅速な裁判を目的とした制度改正がなされてきましたが、それでも長期間を要する裁判がしばしばです。慎重さと厳密さの二律背反のジレンマです。
平成21年からは、司法への理解と信頼向上を目的として、普通の人が裁判に参加する裁判員制度が始まります。対象は重大な刑事事件です。有罪か無罪か、有罪なら刑はどれくらいかの判断に、普通の人が裁判員として参加することになります。だれでも裁判員に選ばれる可能性がある制度です。庶民感覚が裁判に反映されるのは悪くないですが、世論に影響を受けすぎないように注意して運営されることが必要になります。
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